「UP」エッセイ

現代文明批判の手段としての「イスラム世界」
-羽田正『イスラーム世界の創造』に触発されて-

今日の日本において、イスラムをどう理解するかについて研究者、ジャーナリストの間に意見の一致がみられず、このことがイスラムをめぐる言説に混乱といってもよい状況を生み出していることは、つとに多くの識者によって指摘されている。その典型が、「イスラム世界」という地域概念をめぐる意見対立である。

この「イスラム世界」という地域概念について、イラン史研究者の羽田正は、この概念を使って議論してきた研究者に重い課題を突きつける著作を刊行した。『イスラーム世界の創造』(東京大学出版会、2005年)である。そこで、羽田は、実証史家としての面目躍如たる、徹底した文献考証によって、「イスラム世界」という地域概念の架空性を暴いてみせている。
つまり、著作の題名にあるように、現在、わが国の学界・教育界において広く使われている「イスラム世界」なる地域概念は、近代において、ヨーロッパの対概念として「創造」されたものである。そして、羽田によれば、かかる「創造」の背景にあるのは、ヨーロッパにおけるオリエンタリズム-羽田はこの言葉を避け、19世紀ヨーロッパの進歩的知識人の思考パターンという表現を好む-と、それと双生児の関係にある「イスラム主義」との共謀であり、この二つのイデオロギーの対立のなかから、政治的言説としての「イスラム世界」が生まれた。
羽田の筆法は鋭い。彼はこうした「イスラム世界」の「創造」という事実を指摘するだけで満足せず、さらに踏み込んで、この地域概念を使用することによって世界史理解が歪められるところから、それを使うべきではないと主張する。この地域概念を使うことによって、現実にはありもしない、生活のすべてがイスラムによって律せられ、さらにはイスラム教徒だけからなる世界の実在をイメージさせてしまうからである。
とりわけ、深刻なのは、この概念を使うことによって、「イスラム世界」で生じている現実の政治・経済・社会問題が、ヨーロッパとイスラム世界との間の「文明の衝突」というイデオロギー対立の枠組みのなかに埋没しかねないということである。「イスラム世界」で生じている政治・経済・社会問題が分かりにくいのも、架空の「イスラム世界」を前提にして議論がなされるからである。

私は、「イスラム世界」の「創造」という史実の指摘から、「イスラム世界」という地域概念を使うことによる歴史認識におけるデメリットの主張まで、羽田に同意する。しかし、現実の私は、これまでのところ、「イスラム世界」という言葉を使って議論をしてきた。さらに、困ったことに、『イスラム世界論』(東大出版会、2002年)という、そのものずばりの題名をつけた著作まで刊行している。飛んで火にいる夏の虫! そのため、私は、羽田の著作のなかで、「イスラム主義」の代表的研究者の一人という有り難い評価を賜った。
それでは、なぜ私は、「イスラム世界」という地域概念にこだわってきたのか。その理由は、私の性格と結びついた「開き直り」と、「イスラム世界」を地域として設定することの捨てがたいメリットの二つである。
「開き直り」とは、こうである。確かに、羽田がこれでもかこれでもかと指摘するように、「イスラム世界」という地域概念は曖昧で、地図の上で線引きして示すことは難しい。それは不可能でさえある。しかし、「イスラム世界」に限らず、すべての地域概念は曖昧で、「創造」されたものなのではなかろうか。このことは、アジアにせよ、東洋にせよ、オリエントにせよ、中東にせよ、さらには、ヨーロッパでさえ、然りである。おそらく、その他と異なる「イスラム世界」の特殊性、それは、イスラムという宗教を冠した地域概念だということであろう。
したがって、「イスラム世界」という地域概念の曖昧さは、そのほとんどがイスラムという宗教の多面性に原因があるように思われる。実際、現在の日本では、冒頭で指摘したように、イスラムをどう理解するかについて、研究者、ジャーナリストの間に意見の一致はみられない。混乱状況といってもよい。名称ひとつをとっても、イスラーム、イスラム、イスラム教とバラバラである。大別すれば、イスラムを、キリスト教や仏教と同じ「宗教」と捉える者と、「宗教」を越えて、政治社会システムとしての「文明」、あるいは広義の「政治」と捉える者とがいる。
私は、イスラムを「文明」と捉える立場をとってきた。そして、その延長線上に、「イスラム世界」という地域概念を考えてきた。それならば、「文明」が生きていた前近代についてはともかく、ヨーロッパ文明との対峙のなかで、イスラムがその「文明」としての性格を喪失する近代以降について、「イスラム世界」という言葉を使うのはおかしいではないか。これが、羽田の私に対する問いかけであり、叱責である。
この問いかけに、私は答えなければならない。「イスラム世界」をめぐる史実に関する認識については、羽田と私は完全に一致している。その限りにおいて、同じく「イスラム世界」の歴史を専攻する者として、意見のすり合わせは可能であろうし、逆に、イスラム観、歴史観の違いを認め合うことによって、われわれはより深い「イスラム世界」観を築くこともできるであろう。
早速、その作業を始めたいと思うが、その前に、もう一度、「イスラム世界」という地域を設定してきたことに対する自己弁護をさせてほしい。それは、私がこれまで「イスラム世界」という言葉を使ってきたもう一つの理由、つまり、「イスラム世界」を地域として設定することの捨てがたいメリットと関係するからである。
羽田は次のように断言する。

過去に「イスラーム世界」が実際に存在したと考え、その特徴を指摘しようとしても、結局、「ムスリムの支配者が統治し、イスラーム法が施行されている空間」という当初の定義以外にはこの世界に独自の特徴を見出しえない。もし「イスラーム世界」をこのようにしか定義できず、しかも、その定義の根本に関わるイスラームの特殊性が相対化されるとしたら、世界史、ないしは、人類全体の歴史を叙述しようとする場合、そこに「イスラーム世界」史という枠組みを想定することはやめるべきである(295頁)。
この小気味よい主張に感銘をうけ、あっぱれ、「よくぞ言った」と思う反面、優柔不断な私は、「イスラム世界」の使用方法は玉石混交であり、デメリットが多いとしても、これほど人口に膾炙しているのであるから、何かしらのメリットがあるに違いないと考えてしまう。この点について、私は、最近、二つのことをつらつらと考えている。一つは、この地域概念と地域住民のインセンティブとの関係であり、もう一つは、現代文明批判の手段としての「イスラム世界」である。
「イスラム世界」という地域空間をもたらすイスラム教徒のインセンティブについては、経済の領域に関してではあるが、私の考えの一端を、最近刊行した著作で述べた(『イスラム世界の経済史』NTT出版、2005年)。そこで言いたかったことを一言で整理すれば、前近代のイスラム世界における経済発展のエネルギーは、経済主体が自らの経済行動に付した、動機づけ(インセンティブ)であったということである。そして、それは、イスラムの理念と関係づけられていた。
私の考えでは、このインセンティブこそ、現代における「イスラム経済論」者を突き動かしているものであるし、さらには、1970年代後半以降の「イスラム復興」にともなう「イスラム世界」という地域概念の台頭の背景であると思う。私が編者となったイスラーム地域研究叢書⑥『イスラームの性と文化』(東京大学出版会、2005年)の表題において、ジェンダーを避け、セクシャリティ(性)という言葉を選んだのも、イスラム文化とつながる、あるいはつながらざるをえない女性のインセンティブを重視したいと考えたからである。
羽田は、先に引用した文章からもわかるように、アラビア語でウンマと呼ばれるムスリム(イスラム教徒)信徒共同体の概念と結びついた「イスラム世界」を架空の世界として否定する。しかし、日和見主義者の私は、「イスラム世界」の未来を考えるとき、「イスラム世界」創造の背景となったイスラム主義者のインセンティブを無視して、はたして「イスラム世界」の変革は可能であろうかと思ってしまう。
実際、イスラム世界、とくに中東を取り上げてみるに、政権の長期化、「独裁」化、世襲化が進む1970年代以降、政治体制の変革をもたらした政治運動は、1979年のイラン・イスラム革命や1985年のスーダンでのヌメイリー政権の崩壊など、それに対する評価はともかく、イスラムがらみである。そして、イスラムが中東では重要な政策の選択肢となりえることを逆説的な形で示したのが、1991年のアルジェリアでの初の複数政党制による国会選挙でのイスラム救国戦線(FIS)の圧勝、それを受けての翌年1992年における選挙結果の無効宣言とFISの非合法化、そしてその後の内戦の勃発であった。単純な「世俗化」をもってしては「イスラム世界」の変革は不可能であることは、現在のイラク情勢をみるだけでも明らかである。

もう一つのテーマである現代文明批判の手段としての「イスラム世界」も、以上のインセンティブの議論と関係している。ところで、このテーマに関する私の主張を整理するのに格好な著作が、最近翻訳され、出版された。スーザン・バック=モース(村上敏勝訳)『テロルを考える-イスラム主義と批判理論』(みすず書房、2005年)である。著者はフランクフルト学派の社会思想研究者であり、2001年9月11日の同時多発テロに直面し、イスラムに対する無知を悟り、その克服のために、「イスラム主義」をフランクフルト学派流の批判理論のなかで解釈することを試みた。

著者による「イスラム主義」の定義は定かでない。それは、著者の関心が、イスラムという宗教にはなく、「イスラムという共通言語で表現された」政治言説だからである。つまり、ここで「イスラム主義」とは、政治言説をイスラムと関係づけて表現する立場・スタンスを意味する。そして、著者は、さまざまな「イスラム主義」の政治言説を読み込むなかで、以下のような結論に至る。

研究者や書き手によって、解釈や評価はさまざまだが、彼らはいずれも一致して、この政治言説を、いわゆる第三世界の数百万ものムスリムが経験してきた「近代」にたいする、辛い、しかしやむにやまれぬ批判であるとみている。おそらくなによりこの経験の共有性のゆえに、多様で広大な現代イスラム政治を、ひとつの言語領域とみなしてかまわないだろう(6頁)。
ここで、批判の俎上にあがっているのは、近代の時代性そのものを根源的に問うフランクフルト学派の研究者らしく、「近代」である。しかし、実際には、この文章は、20世紀末の冷戦体制終焉後の現代における、アメリカの覇権のもとでのグローバリズムを批判するために書かれている。著者にとって、「現代」は「近代」の延長として捉えられているからである。そのなかで、「イスラム主義」は、ヘゲモニー国家アメリカを批判する言説として取り上げられる。
この意味での「イスラム主義」は、西洋的な政治言説から切り離されれば切り離されるほど、つまりはイスラムの本質に回帰すれば回帰するほど、その批判は効果的である。たとえ、それが暴力という形をとっても。批判理論では、批判は、暴力そのものではなく、その暴力が置かれた文脈に向けられる。アメリカの政治的な暴力と「イスラム主義」の暴力は、同じ時代状況の産物として、コインの裏表の関係にあり、「イスラム主義」の暴力はアメリカの政治的な暴力への異議申し立てとして生じる。
こうして、「イスラム主義」は、その暴力をも含めて、西洋の政治的ヘゲモニーに意義を申し立てる批判的言説として評価される。さらには、「1970年代以降、イスラム主義の組織は、市民社会のなかで活発になり、世俗政府もムスリム政府もはたさなかった社会的役割を、共同体(ウンマ)においてはたすようになっている」とまで主張されている。「イスラム主義」が西洋の政治的規範のヘゲモニーを打破し、グローバルな公共空間をつくる触媒として期待されているのである。
ここで、共同体(ウンマ)とは、言葉を換えれば、「イスラム世界」である。著者にとって、「イスラム世界」の設定は、たんなる批判を越えた、新たな公共空間を「創造」する試みである。「イスラム主義」は「イスラム世界」における内在的批判であるが、その伝統は、エジプトの思想家で、現代の過激なイスラム政治思想・運動の原点とされる、サイイド・クトゥブ(1906-66)に始まるとされる。

私は、バック=モースの著作を羽田の著作の直後に読んだ。そして、読み進めていくなかで、奇妙な感覚にとらわれていった。同じ「イスラム主義」という言葉が、なんと異なって使われるものだろうか。バック=モースも羽田も、専門は違えども、傑出した研究者である。それも、両者は、9・11のような時代性を表出する事件をともに経験した、同時代人である。この違いを自分としてどう解釈すればよいのか。おそらく、この解釈の作業こそ、羽田が私に突きつけた上記の問いかけに答える作業に違いない。
そして、その作業を羽田との対話でもってなそうと思うが、それは、異なる学問観のぶつかり合いとなるだろう。私の「イスラム世界」認識には、バック=モースの議論と一脈通じるところがあるからである。しかし、私はこの対話の成果に楽観的である。「イスラム世界の創造」という史実を認める限り、議論が解釈のための解釈の応酬という不毛で消耗する堂々巡りに陥ることはないと思うからである。