北海道新聞

エッセイ北海道新聞

エッセイ現在は沈静化したようであるが、今年の1月から3月にかけて、イスラムの預言者ムハンマドを揶揄する風刺漫画の新聞・雑誌掲載をめぐってイスラム教徒が反発した。彼らは掲載の中止と謝罪を求めたが、ヨーロッパの一部報道機関は「報道の自由」を理由にこの要求を拒否し、風刺漫画を掲載し続けた。そのため、イスラム教徒の反発は大規模な抗議行動や暴動にまで発展した。

おそらく、この事件を前にして、一般の日本人はなぜこのようなことが起こるのかと首をかしげたに違いない。なかには、「大人気ない」とあきれたものもいたであろう。なぜイスラム教徒は漫画ごときで血を頭に上らせ、ヨーロッパの報道機関は「報道の自由」など仰々しいことを持ち出し、自分たちの行動を正当化しようとやっきになるのか、というわけである。この感覚は、至極まっとうである。

しかし、当初、喧嘩両成敗的な感覚を抱いていた日本人も、事態がエスカレートし、映像を含めたイスラム教徒の暴動に関する報道が多くなるにつれ、その多くがイスラム教徒の行動をより批判的に見るようになって行ったのではないかと思われる。このような「喧嘩」を終始冷静に、中立的な立場から見ることは難しく、どうしても、これまでに培ってきた「通念」でもって事態を評価しがちだからである。
その「通念」とは、近代的で世俗化されたヨーロッパに対して、野蛮とまでは言わないものの、非近代的で宗教的なイスラム世界というイメージである。イスラム教徒のテロを含む、過激な政治行動が日々報道されるなかで、このイメージは強化される。とりわけ、2001年9月11日のアメリカ合衆国における「同時多発テロ」以降、日本人の頭のなかで、イスラムという宗教とテロが結びついてしまった。

その結果、なにか釈然としないものの、ムハンマド風刺画問題においても、自分や日本をヨーロッパに近しい存在とし、理解を超えた存在と思っているイスラム世界を遠ざける。今後も、ムハンマド風刺画問題のような、イスラムとヨーロッパとの間の文化摩擦が生じることは確実である。そして、そのたびに、日本人は知らず知らずのうちに自らをヨーロッパと同化し、先に指摘したイスラムを疎ましく思う「通念」は固定化してしまうかもしれない。
私の著書『「イスラム vs. 西欧」の近代』(講談社現代新書、2006年3月)は、このことを危惧し、執筆された。その目的は、イスラム教徒の主張を弁護するためではない。イスラムと西欧との間の文化摩擦には、当事者ではない日本人にはなかなか理解できない、近代以降の長く錯綜した歴史が横たわっているのだということを、一般の日本人に知ってもらいたかったのである。

歴史を紐解くなかで現在を知るためには、丹念で根気のいる読書と思索を必要とする。イスラムと西欧との関係史のように、複雑で、情報がどちらかに偏ってなされている場合には、とりわけそうである。日本人の西欧についての情報はそうとうな量に上るが、イスラムについてはきわめて限られている。

そのなかで、両者の文化摩擦をどちらにも加担することなく評価するためには、次の二つの事実を知ることは不可欠である。第一は、イスラム、キリスト教、ユダヤ教は同じ唯一神を信じる兄弟の宗教であるということである。つまり、同じ文化伝統に立っており、宗教対立のように見える場合でも、彼らはお互いのものの考え方を分かっている。それゆえに、お互いのちょっとした違いに対して、敏感に反応することにもなる。

第二は、19世紀以降の近代は、イスラム世界が西欧に、少なくとも政治的には、植民地化される時代であったということである。「少なくとも政治的には」と述べたのは、イスラム世界の住民は、その間にあっても、彼らの文化伝統、つまりイスラムに対する信頼と自信を失うことはなかったからである。また、彼らは一貫して西欧のもたらした近代文明に対立したのではなく、それとイスラムとを調和させるために格闘した。しかし、結果は失敗した。それゆえに、いっそう、近代における西欧の政治的支配は、彼らに重い負の過去としてのしかかってくる。

強者はともすれば、弱者の痛み、苦しみに鈍感である。強者にしてみれば、深い意図を持つことなく、何気なく発した言葉であっても、弱者は、それに敏感に反応する。このことは、日本・韓国・中国間の「歴史認識」の違いから生じるさまざまな政治問題に直面している日本人には、よく理解できるのではなかろうか。「通念」は、しばしば政治の場で作られる。「非近代的なイスラム vs. 近代的な西欧」という「通念」もそうである。私の著書が、イスラムでも西欧でもなく、日本人自身の目で、イスラムと西欧の文化摩擦を見るきっかけになればと願っている。