イスラム研究

大川周明のイスラム研究

大川周明がイスラムに関して出版した代表作は、太平洋戦争勃発の翌年に刊行した『回教概論』(慶応書房、1942年)と戦後、獄中と病院で完成されたイスラムのアラビア語の啓典『コーラン(アル・クルアーン)』の翻訳『古蘭』(岩崎書店、1950年)である。その他、大学卒業後、参謀本部でドイツ語翻訳のアルバイトをしながら同時に道会雑誌『道』などに寄稿した諸論考もある。この道会雑誌『道』は松村介石(1859~1939年)が1907年に設立した日本教会(キリスト改革派単立教会、1912年に「道会」と改称)が刊行していた。日本教会はキリスト教を儒教的に解釈したものであり、信神、修徳、愛隣、永世の四つの信条を掲げている。また、大川は晩年『マホメット伝』を未定稿のままではあるが執筆し、それは『大川周明全集』に収められている。しかし、長い間、イスラム研究者としての大川周明は忘れ去られていた。大川は『回教概論』において、「コーランか、剣か」の偏見でイスラムの拡大を説明しようとするヨーロッパの歴史家を批判して次のように述べている。

「基督教徒の歴史家が、疾風迅雷の勢を以て行はれしアラビア人の西亜細亜征服と、其の住民の改宗とに驚魂駭魄して、回教の弘布は専ら『剣か古蘭か』と呼号せる戦士によってなされたるものと誤り伝へて以来、マホメットの宗教は主として劔戟の力によって弘められたるものの如く考へられて居る。但し広く世間に流布せらるる此の思想は、明白に誤謬である。・・・回教の迅速なる弘布の最大の原因が、その信仰の純一、教義の簡潔、伝道者の熱心、及び当時に於ける東方諸国の政治的乃至宗教的混沌であった」

大川周明がイスラム研究者として戦後改めて人口に膾炙されるきっかけになったのは、竹内好(1910~77年)が1969年3月にアジア経済研究所で行った講演「大川周明のアジア研究」であろう。竹内はその講演の中で次のように語った。

「たとえばイスラム研究だけをとってみても、大川の業績は無視できないはずです。かれの『回教概論』は、純粋の学術論文であって、日本のイスラム研究の最高水準だと思います。日本帝国主義のアジア侵略と直接には何の関係もありません」

当時、大川のイスラムに関する仕事を意図的に無視する風潮が覆うなかで、あえて大川を再評価し復権する試みを竹内はおこなったのである。この講演が竹内の著作に転載されて、竹内によるイスラム研究者としての大川への絶賛とも言っていい再評価がその後、定着していったともいえる。さらに、橋川文三編集・解説『大川周明集』(筑摩書房、1975年)、松本健一『大川周明-百年の日本とアジア』(作品社、1986年。後に岩波現代文庫、2004年)、そして大塚健洋『大川周明―ある復古革新主義者の思想』(中公新書、1995年)が出版されることによって、そのような流れに棹さすことになった。
もちろん、大川の主宰した東亞経済研究所において大川の謦咳に接した同時代のイスラム研究者、たとえば、戦後、慶應義塾大学教授を務めた前嶋信次(1903~83年)も『アラビア学への道―わが人生のシルクロード』(NHKブックス、1982年)において、イスラム研究者としての大川について鮮烈な印象を記している。しかし、おそらく、もっとも大きな反響をもたらしたのは国際的に名高いイスラム学の泰斗・井筒俊彦(1914~93年)の発言ではなかろうか。周知のとおり、井筒は慶応義塾大学教授、カナダのマッギル大学教授、そしてイラン王立アカデミー教授を経て。竹内の講演から約10年後に勃発したイラン革命後、テヘランから帰国した。井筒が晩年の1993年に作家・司馬遼太郎との対談において次のように大川について語ったのである。

「大川が私に近づいてきて、私自身も彼に興味をもったのは、彼がイスラームに対して本当に主体的な興味をもった人だったからなんです。知り合いになった頃、これからの日本はイスラームをやらなきゃ話にならない、その便宜をはかるために自分は何でもすると、私にいってくれました。それで、オランダから『イスラミカ』という大叢書と、『アラビカ』という大叢書、つまり、アラビア語の基礎テクスト全部と、イスラーム研究の手に入る限りの文献は全部集めて、それをものすごいお金で買ったんです。それを、東亜経済調査局の図書館に入れておいた」(『中央公論』1993年1月号、後に『井筒俊彦著作集』別巻、中央公論社、1993年)。

井筒は戦時中、東亜経済調査局にアラビア語整理という名目でアルバイトに行っており、そこで大川に出会ったのであった。井筒の見た大川はたしかにイスラム研究者としてであろうが、同時に行間から読み取れるのは、戦時下にあってイスラム研究を積極的に推進しようとする「研究経営者」としての大川の貌であろう。井筒が大川に知り合った頃はすでに東亜経済調査局の理事長として多忙であった。
大川周明研究の第一人者である大塚健洋氏は大川のイスラム研究を次のようにまとめている。

「『回教概論』や『古蘭』は日本のイスラム研究の古典である。大川の師の姉崎正治は『回教概論』を絶賛したといわれている。また『古蘭』は、昭和33(1958)年に井筒俊彦の原典からの翻訳『コーラン』が出現するまで、「夜空に輝く彗星のような存在として、コーランの愛読者から尊重された」(藤本勝次「大川周明とイスラーム敎」『コーラン』中央公論社、1970年)。(中略)大川は調査局の費用で、世界的に有名なモーリッツ文庫というイスラム教文献コレクションを購入し、若き日の井筒俊彦はこれを見るためにしばしば調査局を訪ねたという。また、大川は東亜経済調査局付属研究所<通称、大川塾―引用者>を主宰し、アジアと日本の架け橋となる青年の教育にも努めた。国際化や国際貢献の必要が叫ばれている現在、アジア諸国の言葉を解し、現地人の心が分かる、現地事情に詳しい人材が求められている。戦前に、タイ語、マレー語、ヒンディー語、トルコ語、ペルシャ語、アフガニスタン語、アラビア語といったアジアの言語のエキスパートを育成しようとした大川の先見の明を、我々は今こそ顧みるべきであろう。」(大塚健洋『大川周明』中公新書、1995年、201~203頁)。

大塚氏が指摘している東亜経済調査局付属研究所で人材を育成しようとした大川の先見の明を顧みるべく本ホームページは立ちあげられた次第である。以下、大川周明によるイスラム研究の代表作は冒頭に述べたとおり『回教概論』(1942年)および『古蘭』(1950年)であることは論を俟たない。
大川のイスラムへの関心は大学時代にまでさかのぼる。大川は1950年2月に出版した邦訳『古蘭』の前書きにおいて若き日を振り返って次のように書き残しているからである。

「われ大学を卒へて数年の後
帝大図書館の特別閲覧室に
晴の日も雨の日も通ひつめて
回教研究に没頭せる」(後略)

冒頭で述べたように、若き日の大川のイスラムに関係する論考の多くは道会雑誌『道』に掲載されている。大川はこの雑誌の事実上の編集者としてこの『道』という小冊子に、大川周明の本名でのみならず、白川龍太郎、斯禹生などといったペンネームで論文、彙報、海外思潮などほぼ毎回のように執筆した。
大川がこの日本教会に入会して『道』誌の編集や執筆に関わった1909年から25年までの期間は、年齢的には、第五高等学校卒業後の23歳から拓殖大学および東亜経済調査局に勤務しつつ行地社を設立する39歳まで15年弱に及ぶ。換言すれば、『道』には大川の青年時代から壮年にかけての論考の多くを含んでいるといってもいい。初期の19回にわたる「宗教講話」シリーズおよび東西の宗教関係の論考、1916年以降の日本文明・日本史関係の論考、ヨーロッパの歴史・思潮に関する論考、そしてアジアのナショナリズムあるいはイスラム関係の論考といった、その後、大川が手がけたテーマがほぼ出揃っている。とりわけ、『道』に寄稿されたアジア関係の論考は若干の手直しを経て一冊の本にまとめられて1922年に『復興亜細亜の諸問題』として刊行されることになる。アジア主義者としての大川の出世作である本書の元となる論文がほとんどこの雑誌に寄稿されたという事実は何度強調してもしすぎることはない。
参考までに、これまでも『道』に所収の論考に関する書誌的研究はなされている。たとえば、大塚健洋「道会における大川周明」(上:『政治経済史学』第230号、第237号、1985年、1~11頁、下:『社会経済史学』第237号、1986年、66~75頁)、および刈田徹「道会機関紙『道』の解題ならびに「総目次」-大川周明に関する基礎的研究の一環として」(その1~その6)『拓殖大学論集』(その1、第158号、1985年、187~235頁;その2、第160号、1986年、207~240;その3、第162号、1986年、347~381頁;その4、第164号、1987年、383~410頁;その5、第166号、1987年、123~149頁;その5、第176号、1989年、169~205頁)がある。大塚論文は『道』所収論文の紹介であり、刈田論文は基本的には、その論文タイトルに「解題ならびに『総目次』」とあるように『道』所収の論考をリストアップしたもので、『道』に関心のある者が参照するにはすこぶる便利なものであるので、ここで改めて紹介しておきたい。
『道』に掲載された大川の初期イスラム関係論考の一部は別途、本ホームページにpdfファイルとして公開するので(研究論文)ぜひ参照されたい。
(文責 臼杵 陽)